「期待」と「信頼」の間で

今朝はいいことがあった。朝起きたら洗濯物が干されていた。今夜やろうと思っていた家事だけれど、同居人が夜のうちにやってくれたらしい。こんなこと、今まであったっけ。

 
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考えてみたら、あったと思う。わたしのほうが残業が多くてなかなか家事ができないとき、忙しい彼もさすがに見かねてやってくれていたときがあった。

ただ、毎回といっていいほど干された服の袖がまくれていたり、タオルがまがっていたり、シワシワのままだったりして納得がいかずつい文句を言いたい気持ちになっていた気がする(実際に文句を言ったことはないけど、きっと態度には出ていたのではないだろうか)。

 

そうか、と気がつく。わたしは同居人がやってくれたことに対して感謝できていなかった。また反省した。この間から反省してばかりだ。

 

わたしは彼に対して期待しすぎていて、自分が求めるレベル(たぶんちょっと求めすぎ)で家事をやってほしかった。でもそれはいつも裏切られていたから、わたしはいつも不満に感じていたんだと思う。でもそれって、どうなんだろうか。

 

いくら家事をやりやすいように設備を投資して(珪藻土バスマットを買ったり)、工夫して(忘れやすい家事はリスト化して都度LINEのノートに更新したり)いたとしても、相手ができないとがっかりするのは身勝手だったんじゃないだろうか。一方的に理想を押し付けていたかもしれない。家事がやりやすい環境づくりは話し合って進めた訳じゃなく、わたしが推測してひとりで考えてやっていた。彼の気持ちは考えられてなかった。

 

先日のみどりさんの記事で「相手を信頼してない」という文字を読んではっとした。

 

信頼は、文字通り「信じて頼る」こと(相手主軸、結果ではなく前提に重きをおく)だと思う。期待の、「実現するだろうと望んで待つ」(自分主軸、結果に重きをおく)と比較すると対照的に感じられる。

 

わたしは家事ストライキをして、よくも悪くも相手に期待をしなくなったら、なぜか同居人が家事をしてくれた。わたしも、干された洗濯物が曲がっていてもむっとはしなかった。これが期待しないということなのか。たぶんきっと、わたしは期待しすぎていた。

 

もしかしたら、わたしたちの関係は家事ハラスメントのようになっていたかもしれない。ブログを書きはじめるまでは、「なんでやってくれないんだろう」と彼に対して憤りばかりあったのに、今では「悪いことしたかな」と反省している。もちろん、自分だけが悪い訳じゃないけれど、少なくとも彼を責める気持ちはすーっとどこかへ消えていったような気がする。

 

これからは、信じて頼ってみたい。そして自分も信頼される人間になりたい。